ビオンのセミナー記録を読んでいる。精神分析における大きな流れはフロイト、クライン、ウィニコット、ビオン、ラカンに代表されるだろう。サリヴァンやコフートもそうかもしれない。
今はビオンのセミナーを読んでいる。セミナー記録を読むときはそれが聴衆に向けた話し言葉であることに注意しないと学びにくいかもしれない。日本の精神分析家の福本修先生がビオンの『タヴィストック・セミナー』のあとがきで、セミナーの一部をネット上で見られることに言及して百聞は一見に如かずと書いている。そして「(笑)や(嘆声)(騒然)などと的確に加えられれば、更に分かりやすくなったかもしれない。しかし文字情報のみからそれを読み取るのは不可能」であるため「ビオンが真顔で極端なことを言っている箇所では、冗談が含まれている可能性を考えていただきたい」と書いている。文字からはビオンが「真顔」かどうかすらわからないけど。
「冗談が含まれている可能性」はとても大事だ。この前ここで書いた『ピグル』の翻訳も治療セッションの記録なので翻訳がとても難しかった。そしてこれも前に書いたけど言葉とこころの不確かな関係は形にならない話し言葉にこそ現れるので文字にするのは難しい。
その点、まだ生きている(つまり会おうと思えば会える)日本の精神分析家の書いたものは雰囲気を捉えやすいので面白い。今は動画だって残せる。が、実際に会わなくても、動画を見なくてもその語り口が生き生きと伝わってくる講義本は存在する。代表的なものが日本の精神分析家の藤山直樹先生の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)の上下巻だろう。
日本は精神分析家が少ないのでその全ての講義を比較することも可能かもしれない。
北山修先生のことは多くの人が知っているだろう。彼もまた日本の精神分析家だが、歌手や作詞家としての北山修しか知らない人の方が多いかもしれない。大好きだった「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者である北山修が、セミナーなどで指導してくれる北山先生であることは私もずっと繋がっていなかった。彼の本はどうだろう。私には読みにくい。なぜなら言葉の厚みがすごいから。圧倒されてしまう。でも話をきくとわかる。とても面白い。歌い手でもある著者は語りの名人でもある。本だとわからないまま置かれていた言葉たちが呼吸しはじめる。北山修の場合、さすがにメディアの人でもあるのでその語り口は探せばいくらでもきける。もちろん歌声も。
さて、先に挙げた藤山先生の講義本は突出している。語り口を知らなくても想像ができるほど字がものを言ってる稀有な講義録だ。彼が脚本を書く人で、演出家であったことも大きく影響しているのだろう。私は音楽も演劇も好きだが、音楽が圧倒的にその歌い手に目を向けさせるのに対して演劇はそれが演じられている空間全体にいつの間にか自分がとりこまれる体験をさせられる。それをどう感じるかはまた別の話で、その演劇の力を知る著者のこの本に対しても好き嫌いは分かれるだろう。もし、静かな語り口を好む人がこの本のテンションにおされてしまって途中で読むのをやめてしまうとしたらそれはそれでもったいない。精神分析の歴史とエッセンスをこれだけコンパクトに明快にまとめた本はほかにないだろうから。もしそういう場合は、同じ著者の『精神分析という営み 生きた空間を求めて』(岩崎学術出版社)を読まれるといいかもしれない。同じ著者とは思えない語りがここには登場する。これはその後『続・精神分析という営み』『精神分析という語らい』と続く第一冊目だが、もしこの中から一冊だけ選ぶとしたら断然これだと思う。誰もがそういうと思うがどうだろう。いずれにしても教育者としての語りと精神分析家としての語りとはこれほどまでに異なるとわかるだろう。
今こうして色々書いてはいるが、これらはあくまで精神分析家個人の公に向けた語り口の話であって、精神分析セッションでその分析家がどう語るかはその患者しか知らない、ということも付け加えた方がいいかもしれない。同じ分析家であっても患者によって、ときにはセッションごとに語り口は変わる。変わってしまう。あるいは変わったように感じてしまう。転移とはそういうものだ。精神分析における語りはその場の二人によって作られる。当然講義とは違う。書き言葉にできるのはほんの一部だ。
精神分析で起きる出来事を静かな語りの文字にすることに成功している本といえば、同じく日本の精神分析家の松木邦裕先生の『不在論』(創元社)がある。この本は精神分析が明らかにする根源的不安に近づく患者と治療者のこころの動きをフロイトが作り出した大きな川のような思索に乗せる。そしてすでにそこでの微細な震えや激しい揺れを体験したことのある著者が、患者のそれを静かに見守り、時に言葉にしながら共にいる。その様子が大人の語り口で文字にされている。なぜ大人かといえば、著者はこの二人がいずれ別れること、いやこの二人に限らず、私たちはみないずれひとりになるという現実に対する深いもの想いがあり、自らを律したような静けさを保っているから。
著者の息遣いを探しながら、感じながら本を読むことは楽しい。でも精神分析で言えばこれもすでに書いたことだがそれは「受ける」ものであって「読む」ものではないだろう。
幼い日に本で読んだ大切な人との別れ、異質なものに対する差別、自然の大きさ、私たちは体験することではじめてそれがどんなものかを知る。読むことと体験することは入れ子になっている。本を開いたら草花がニョキニョキと生えて、いつの間にか自分がそこに立っていた、そんな本があるのはそういうわけなんだろう。
ちなみにカレーが美味しい店は珈琲も美味しいという。逆も然り。神保町の喫茶店でカレーと珈琲と本で過ごす土曜日もいいかもしれない。